天鵞絨(びろうど)と紺碧(こんぺき)

40代後半アラフィフ女性の日常記録。ブログ名は好きな色の名前から。ひっそり綴りたいので、リンクはお断りしております。

好きじゃないけど、価値を認める

講座の後、せっかく駅前に行ったので、知人のカフェへ。

先日絵本講座を受けた、落ち着くカフェ。

 

めずらしく、他にお客さんがいなくて、店主と1対1だったので、

1時間ほどの時間の中で

ゆっくり深い話しができてよかった。

 

その中で心に残った言葉。

 

・ゴールに向かって、力をかけるところと、かけないところの選択が必要で、

できない点をあげるより、どうすればできるかで考えていけばゴールに到達できる、

という体験を前職(私も同じ会社だったことがある)でさせてもらった。
だから今、こうしてお店ができて、成り立っていると思う。

 

・好きじゃないけど、価値を認める。

コーヒーの豆にはたくさんの種類があって、人の好みは千差万別。

自分の好きな豆だけを認めていても、お客さんの好みに応えることはできなくて、自分の好みに関係なく、どの豆もその特徴を知り、価値を認める。

それによって、その人に喜んでもらえる珈琲を提供できる。

 

→これ、人についても同じことがいえる。

ずっと前に、この店主さんが「自分は、苦手なタイプの人はいるけど、嫌いな人はいない」というようなことを書いてて、「あ、これ私も」と感じた。

人って多面性があるから、苦手な人でも、その人の中に、認めたり尊敬できる部分があると、嫌いではなくなる。私の場合。

人って、私にはない良いところを絶対持ってる。

そういうところを見つけると嬉しくなるし、嫌いになれない。

そして知りたくなる。

 

社会人になって、周りの人が、頭の良い、問題意識の高い人たちで、

そういう人たちが、「あの人のこういうところが使えない」とか「ここはすごいけど、ここがダメ」とかいうのを聞いてたら、

「みんな嫌いじゃない私って、おかしいのかな?」と思うようになった。

どうしてそう思ってしまったのかね。

それこそ、「好き嫌い」と「仕事での出来不出来」は別問題なのにね。そこが「=」だと当時の私は感じたんだね。

そして、仕事の評価をする周りの人たちがかっこ良く見えて、

私もかっこつけたかったんだろうね。

人の評価をできない自分がすごくお人好しに思えて、バカみたいに思っちゃったんだね。

 

今日、店主さんと話して、「すべての人の価値を認めてる」ってことなのかな、と思えた。

 

そしてたぶん、私の本質は、お人好しでバカみたいなんだと思う。

それが私なんだと、心から受け入れられたら、変わってくる部分があるんじゃないかな。

正直、まだ心から、はできてない。

お人好しはいやだ、バカみるのいやだ、かっこつけたい、と自分のどこかで訴えてる感触がある。ふとした会話とかで、でてくる。

 

がんばらない、かっこつけない自分になりたいな。

むしろそのほうが、自分にとって、かっこよくなれると思うんだけどな。