好きじゃないけど、価値を認める
講座の後、せっかく駅前に行ったので、知人のカフェへ。
先日絵本講座を受けた、落ち着くカフェ。
めずらしく、他にお客さんがいなくて、店主と1対1だったので、
1時間ほどの時間の中で
ゆっくり深い話しができてよかった。
その中で心に残った言葉。
・ゴールに向かって、力をかけるところと、かけないところの選択が必要で、
できない点をあげるより、どうすればできるかで考えていけばゴールに到達できる、
という体験を前職(私も同じ会社だったことがある)でさせてもらった。
だから今、こうしてお店ができて、成り立っていると思う。
・好きじゃないけど、価値を認める。
コーヒーの豆にはたくさんの種類があって、人の好みは千差万別。
自分の好きな豆だけを認めていても、お客さんの好みに応えることはできなくて、自分の好みに関係なく、どの豆もその特徴を知り、価値を認める。
それによって、その人に喜んでもらえる珈琲を提供できる。
→これ、人についても同じことがいえる。
ずっと前に、この店主さんが「自分は、苦手なタイプの人はいるけど、嫌いな人はいない」というようなことを書いてて、「あ、これ私も」と感じた。
人って多面性があるから、苦手な人でも、その人の中に、認めたり尊敬できる部分があると、嫌いではなくなる。私の場合。
人って、私にはない良いところを絶対持ってる。
そういうところを見つけると嬉しくなるし、嫌いになれない。
そして知りたくなる。
社会人になって、周りの人が、頭の良い、問題意識の高い人たちで、
そういう人たちが、「あの人のこういうところが使えない」とか「ここはすごいけど、ここがダメ」とかいうのを聞いてたら、
「みんな嫌いじゃない私って、おかしいのかな?」と思うようになった。
どうしてそう思ってしまったのかね。
それこそ、「好き嫌い」と「仕事での出来不出来」は別問題なのにね。そこが「=」だと当時の私は感じたんだね。
そして、仕事の評価をする周りの人たちがかっこ良く見えて、
私もかっこつけたかったんだろうね。
人の評価をできない自分がすごくお人好しに思えて、バカみたいに思っちゃったんだね。
今日、店主さんと話して、「すべての人の価値を認めてる」ってことなのかな、と思えた。
そしてたぶん、私の本質は、お人好しでバカみたいなんだと思う。
それが私なんだと、心から受け入れられたら、変わってくる部分があるんじゃないかな。
正直、まだ心から、はできてない。
お人好しはいやだ、バカみるのいやだ、かっこつけたい、と自分のどこかで訴えてる感触がある。ふとした会話とかで、でてくる。
がんばらない、かっこつけない自分になりたいな。
むしろそのほうが、自分にとって、かっこよくなれると思うんだけどな。