母の見舞い
上の子の部活の休みを狙って、2泊3日で関東方面の実家へ帰省。
私の運転で、娘二人と、片道、休憩しながら5時間ほどのドライブ。
初めての頃は、首都高が怖かったので、ダンナに助手席に乗ってもらって、
往復したものだが、だいぶ慣れてきた。
それもこれも、グーグルマップと娘たちのお陰💕
目的は、母のお見舞い。
長いことパーキンソン病をわずらっていて、
一昨年急に様態が悪化し、最悪の状態は脱したものの、
それ以降、ほぼ寝たきりになってしまい、父の自宅介護も限界になり、
昨年から夫婦で完全介護の施設に入居。
幸い父は元気なので、日中は1人で自宅へ帰って過したりもしている。
母の様態はいったりきたり、だが、この夏はまたよくなくて、
今回も会いにいっても、反応が鈍く、ほとんど笑顔はない。
それでも、ときどき意識が戻ってくる様子で、
こちらのいうことに答えようとしたり(でも声がでないので聞き取りに苦労する)、
孫の顔を見て、笑顔を作ろうとする様子もある。
私は、母が発病してからも、すごく自然に受けとめている。
悲しいとすれば、そのやせ細った体を意識するときとか、
想い通りに動けない自分が無念だろうな、と母の気持ちを慮るとき。
けれど、どうして私の母が、とか、母が元気だったら、とかいう観点で
悲しさや辛さが湧くことはない。
おそらくそれは、父が元気で、
母のことを一手に引き受けて、弱音も吐かずに面倒をみていてくれたり、
本当にありがたいことに、経済的にも余裕があるということだったり、
近くには兄家族が住んでいて、兄嫁が私たち兄弟以上に両親に気を配ってくれているからだろうな。
こうして書き出してみると、本当にありがたいことだと思う。
いつも会いに行くと思うことは、
母の、つねに生への意欲を失わないことのすごみ。
今回は、会いにいっても、話しかけても、
意識がぼんやりしていて、言葉がはっきりしない状態だったが、
こちらがリハビリを誘うと、できなくてもやろうとする。
意識が短時間で途切れても、また戻ってくるとやろうとする。
そして、私が帰ろうとしたときに、
声を出そうとしていたので、耳を近づけて聞くと、
「またね」「ありがとう」と言う。
帰ってしまう私たちへの恨み言ではなく、
感謝の言葉を述べる人なんだなぁ・・・とあらためて思う。
現実問題としては、いつ、どうなってもおかしくない状態、と言えるだろう。
遠方にいる私にできることは、母の調子のよいときにかかってくる電話に付き合うこと、
そして後悔のないよう、また会いに行き、会っている時間を大事に過すこと。
母の状態に関係なく、
唄を歌って聞かせて、リハビリに誘ったり、
ほがらかに、笑顔ですごす娘たちにも感謝!